マキノノゾミのブログ
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▼ 『写楽考』を考えるのこころだ。
禍福はあざなえる縄の如しというか。
博多で美味いモノ三昧をして帰ってきたら風邪をひいて、ひどい熱が出て、今週前半三日間ほど死んだ。
今は完全復活したけど、執筆スケジュールにさらに狂いが生じて、それはそれでけっこうつらいことになっている。
ま、そりは今に始まったこっちゃないか。
で。
そんな中、二晩続けて芝居を観た。
コクーンでやってる『写楽考』と、パルコの『コンフィダント・絆』ね。
写楽をめぐる人々の話とゴッホをめぐる人々の話。
渋谷でやってる新旧二つの芝居が、東西の天才絵描きをモチーフにした芝居ってのが、ま、奇縁な感じで面白かった。
で、決して身内贔屓というわけではないのだが、『写楽考』のキムラは本当によかった。
ていうか、初めてなんじゃないかな、和モノ芝居でキムラがこういう「情の薄い」役を演じるのって。
どちらかといえば、いつもは情の濃い激情型の役が多いしな。
今回のお加代という役も最期は激情するけれど、それ以前にいわゆる大店の女将さんで若い男を愛人にして弄ぶという酷薄な「どS人妻」という役どころがオレにはとても新鮮だったのよ。
そういう役の作り方そのものも。
英語でいえばニューキムラって感じ。
ま、英語でいう必然性はまったくないわけだが。
でもさ、『写楽考』は何てったってほれ、一昨年オレが自身で演出したばかりの外題であるわけでさ。だから、およそ今回のすべての観客の中でも、もっともこの芝居を楽しめた客ベストテンの3位くらいにはランクインする自信があるね。
それくらい楽しんだ。
だいたいが自分がやったことのある芝居を、他のカンパニーのバージョンで観るのって大好きなんだよね。
単純に「へえ~、こういうやり方もあるのかぁ」って感心したり、あるいはもっとどす黒く、「ふっ、てんでわかっちゃいねぇなぁ」なんてのもあったりね。
以下の感想は何様だって聞こえるかも知れないけど、その芝居と真剣に格闘して血を流したことがあるやつには語る資格があると思ってるから書く。
で、思ったことね。
今回のバージョンは鈴カツさんらしく、えらくスタイリッシュなのだが、「なるほど、こういう見せ方もあるのか」と、そこはまず最大に感心したポイントね。
印象として「無駄を徹底的にそぎ落としてみました」って感じで、舞台全体を支配しているシンプルなビジュアルとリズム感、つまり観客の視覚聴覚に絶対的に心地よく訴えるようにまとめあげる手腕には、毎度のことながら素直に感心した。
鈴カツさんの演出法は、上演時間もふくめてそういったビジュアルとかリズム感覚とかいった、観客と作品が出会う環境作りにだけは徹底的にこだわっておいて、あとは戯曲と俳優たちの地力と観客の自由な想像力を信頼してすべてを委ねる、といったものであるようだ。
逆にそれ以上のことに演出家は手を出すべきではないと明確に考えているのだろう。
たしかに稽古場などで俳優を信頼して「待ち続ける」というのも演出家の大事な仕事だけど、俳優の演技に対して徹頭徹尾余計な口を出さずに「見守ることに徹する」というのも、それはそれで大変なことだ。
だからこれはこれで一つの見事な見識であって、独特な演出手法だと思う。
ただ、この『写楽考』の場合には、それはやはり諸刃の剣でもあってさ。
この前もちょっと書いたけど、「無駄がある」ってのは実は大事なことでもあって、一見するとすっごい無駄なことなんだけど、後から思えば実は全然無駄じゃなかったものってもけっこう一杯あるわけで。
特に実人生を生きてるとそういうことだらけなわけでさ。
それにこの『写楽考』は、はっきりと青春というか、「未熟」ということに関する物語だから、本当いえば、写楽が誰だとか浮世絵がどうだとか、本当はどうだっていい話なんだよね、これ。
オレは作者の八代さん本人だって、最初はきっと何を描きたいのか明確には把握してなかったと思ってる。
それでもクソ真面目にクソ真面目に思索し、登場人物たちと一緒になって右往左往しつつ、悩み続けて書きあげた戯曲だと思う。
だから無駄も矛盾もうんとあるヘンな戯曲だ。
で、結局オレはさ、そこがいっとう好きだったんだよ。
その愚直さと、不器用さと、一見すると無駄だと思えるようないろんなことが、世にも美しい台詞とゴタゴタと同居してるってとこが。
それらのすべてを通して、初めて作者をいとおしいと思ったし、登場人物一人一人をいとおしいと思えたもの。
だから、その意味においては今回の『写楽考』には、はっきりと不満が残った。
すっきりさせすぎ。
休憩があってあと30分くらいあっても全然かまわなかった。
ていうかむしろその方が、やはり後半部分は活きたと思う。
この作品は元来が芝居としては退屈な部分が、どうしようもなくある作品なのだ。
劇作的にみても、後半部の交互にモノローグが続く一連の場などは、苦しまぎれな感じは否めない。
書きたいことを全部書こうとしたら、あの時点ですでにかなり長尺なものになってしまっているのに気づいて、物語を収めるために、苦しまぎれにああいう手法をとったのではないかと思わせる。
だから、あそこはどうやったって観客にはある種の「退屈」を強いることになる。
だけどね。
だからってやたらにカットしちゃダメなんだ。
あれも全部必要な場だとオレは思ってる。
人生というやつがそうであるように、だ。
これはとても生真面目な戯曲で、生真面目ってのは往々にして滑稽であったり、退屈だったりもするけど、そういう欠点も全部ひっくるめてその人であるように、全部真正面から生真面目にやったほうがいい。
たとえば、伊之って男は、もっともっとちっぽけで、バカで、尊大で、弱くて、可愛らしくて、純情で、屑のようにどうしようもない男で、その報いで現世では最期の最期まで救われることのなかった男である。
もちろん難役中の難役であるし、こんな一方的な批評も同業者のはしくれとしては忸怩たるものがあるのだが、それが伝わらなかったのは、返す返すも悔しくて仕方がない。
伊之の「魂」がみたいのだよ、もっと。
もがき、傷つき、苦しむ伊之の魂にこちらの魂ももっと共鳴して、その上であの珠玉の終景にたどり着きたいのだよ。
そうでなければ『写楽考』を観た気がしない。
うーむ。
オレ、つくづくあの芝居が好きなんだなぁ。
いつかあの世で作者の矢代さんと一献交わしつつ対談などしたいものだと思う。
ていうか、今回は久々にムキになって正面から少々辛口なことを書いてしまったが、これももしかして鈴カツ演出の術中にはまってるだけか?
「今回の舞台を観てそういうふうに熱くなってくれたのなら、それはそれでいいんですよ」って。
何だよ、オレも結局鈴カツさんの手の平の上かよ。
ちくしょう。
クレージーボーイ、ゲットクール。
わかっちゃいるけどな……やめられないのな。

では、仕事に戻る。
ていうか、その前に休憩して髪を切りに行こ。

それくらいの時間はあれかし。
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by mop-makino | 2007-04-13 14:18
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